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稲葉氏一族と春日局の墓

稲葉氏一族と春日局の墓

 稲葉氏一族と春日局の墓  春日の局は、本名をお福といい、天正七年(1579)、明智光秀の五重臣の一人斎藤利三の末娘として生まれました。十七歳のとき、備後の国の稲葉正成の後妻となり三子を設けましたが、たまたま徳川第二代将軍秀忠の長子竹千代の乳母の募集に応じ、江戸城に住むことになりました。

 春日局に育てあげられた竹千代は、元和九年(1623)、徳川第三代将軍家光となりました。局とその長子稲葉正勝とを敬愛していた家光は、寛永九年(1632)、正勝を八万五千石の小田原城主に任じました。これが、小田原稲葉氏の始まりです。

しかし、寛永十年(1633)、歴史的な小田原大震災で小田原城は崩壊し、その翌年寛永十一年(1634)には、当の正勝も、不幸なことに三十八歳の若さで病没してしまいました。

 後を継いだのは、わずか十二歳の稲葉正則でしたが、祖母に当たる春日局の絶大な力で、正則は、三十五歳で徳川幕府の老中となりました。「長興山紹太寺」を創建したのもこの正則です。やがて、その子稲葉正通が襲封し、稲葉氏一族は、小田原の藩政を五十年間握りました。寛永二十年(1643)、六十五歳で没した春日局をはじめ稲葉氏一族は、相模灘を遥かにのぞむ長興山山上で眠っています。

鉄牛和尚の寿塔

鉄牛和尚の寿塔

 『伏牛石』の近くを流れる沢を渡る橋の上から上流を眺めると、沢の中島の先端中央の石に『牛洞水』の三字が刻まれているのが見えます。沢を渡るとほぼ正面に石段が見え、上方に石塔がのぞいています。開山鉄牛の寿塔で、寿塔とは人の生存中に、その人の長寿や功績をたたえて建てられた塔をいいます。この寿塔の裏側にこれが貞享四年(1687)長興山二世超宗らによって建てられたという銘文があります。

 この年鉄牛は60歳で、つまり還暦を祝った寿塔でした。大正十二年の関東大震災にこの寿塔も倒れ、塔心から青銅の二重の筒が出たことがあります。内側の筒には六十歳の鉄牛の髪と爪が納められ、外側の筒には長文の文字が彫られ、それは鉄牛が元禄十三年(1700)に無くなった後の文章でした。

長興山紹太寺の境内絵図

境内絵図1 境内絵図2

長興山開発供養塔

長興山開発供養塔

 造立の年号が見あたりませんがこれを建てたのは岩村(真鶴町)の朝倉清兵衛で、これは石材関係の人と思われます。四角柱の側面に総奉行・下奉行ら8名の役人名、他の側面に43名の土木僧衆の名が刻まれ、このように長興山の開発事業に従事した人々を主とする記念碑と診られます。ところが、碑の正面は三界萬霊の文字を中心に、開山鉄牛の父母をはじめ関係者にゆかりある人々の法名15名と、裏面には同じく、17名の法名が刻まれて供養塔の性格を示しています。このように石塔は記念と供養を兼ねた珍しいものですが、しかしこれまでいわれてきたように、この工事の犠牲者の供養塔とするのは誤っているようです。

鉄牛和尚の画像

鉄牛和尚の画像

 画像は、作者兆渓元明(鉄牛禅師の弟子)で寛保二年(1742年)歿して42年後の遺像であるためやや形式化したところがありますが顔の各所に朱の隈取りを付けて独特の立体感を出す黄檗画像の描法を良く守っております。

鉄牛和尚の血書

鉄牛和尚の血書

鉄牛和尚の血書  この血書は禅師が三十六才の時に、亡母十七回忌にあたって、一切衆生の為に斉戎をし、十指を指して血を取り、大乗経十巻と釈迦如来像を制作しました。血書の中に描かれた如来像は黄檗の形態をなしているものの素人描法にちかいものです。しかし禅師自らの血で描いたという特別の由緒から貴重な歴史資料として珍重なものです。上部の賛は黄檗三筆といわれた木庵禅師(黄檗二代住持)のものです。(1663年作)

因みに鉄牛禅師は黄檗三傑のうちの一人です。

長興山のしだれ桜(かながわの名木100選)

長興山のしだれ桜

木の高さ:13m
枝張りの範囲:直径13m

 この桜の江戸時代当時の呼び名は『櫻珞櫻』で、その刻字名をもつ石標は稲葉氏一族の墓所の入口にあります。エドヒガンという彼岸桜の一種に枝の垂れる品種があり、それをしだれざくらまたはいとざくらとも呼んでいます。仮に植えられた年を紹太寺が移転してきた寛文九年とすれば、樹齢は三百二十年以上になります。花の見頃は四月上旬の年が多いようです。

  しだれ桜の下に、『琵琶池』・『右赤竜松左一株樟』と彫られた二個の石が少し離れて見られます。松は楠の独立樹までこのように大切にされていたのです。さらにしだれ桜の下段にまわる階段の脇に『松蘿圃』の三字が彫られています。松蘿は松にさがった蔓、または茶の意味で、一山の衆僧たちによって、この付近には野菜あるいは茶畑が拓かれていたことがわかるでしょう。現在、しだれ桜の保護のため、根周辺には入れませんので、これらの刻銘石は見ることができません。

長興山の樹叢(鉄牛和尚寿塔付近)

 長興山紹太寺は幕末の火災で堂塔は焼失してしまいましたが、現在鉄牛和尚寿塔付近の樹木は昔からの聖域という事からそのまま今日まで残されてきた事は幸いである。自然林が焼失しつつある現在、市内はもとより県下でも数少ない残存自然林として貴重な存在である。寿塔付近を構成しちる代表的な樹木はかつてこの地域一帯を覆っていたであろうスダジイ、イヌマキで共に二十数本を数える。この他クスノキ、ヤブニッケイ、シラカシ、ウラジロカシ、ヤブツバキ等も混生している。寿塔付近の地形は起伏に富み、流れも滝もあり、自然環境にも恵まれ、うっそうと茂った森と良く調和し、幽邃境を思わせる。紹太寺の長い歴史を物語る巨木、古木があり特色を添えている。市内最大級のものとして、しだれ桜はもとよりスダジイ、イヌマキがある。これら樹木は学術、教育指導の資料として貴重なものです。

長興山紹太寺(旧清雲院)

長興山紹太寺(旧清雲院)

 普茶料理で知られる長興山紹太寺は、本堂ののきに長興山の三字を刻んだ扁額がかけられ、まずその字の気はくに圧倒されるでしょう。宇治万福寺開山隠元の書で、これはさっき見た総門に架けられていたものですが、明治年間にこの門が焼失した時、土地の有志によって選びだされたといいます。

 山門に向かって左手にある石標は正面に『松樹王』、左側に『長興山堺』と刻まれ、もとは東海道沿いの長興山境内東限(入生田と風祭の境)の位置にありました。『長興山七つ石』と呼ばれ境界石は七基あったと伝承されますが、現在この『松樹王』を含め五基が確認されるようになりました。

伏牛石

伏牛石

伏牛石 大きさ:幅4.30m・高さ1.66m

 山中に巨石があり、それが牛の横たわる姿にそっくりなので、長興山以前のこの付近の呼び名は『牛伏せ山』であったといいます。

 開山の鉄牛がこの地に来て、自分の名と偶然の符合に喜んだのも当然だったでしょう。自ら『自牧子』と称しました『長興山の牛臥石に題す』という七言詩を作っています。

 『伏牛石』は横腹に鉄牛の銘文がありますが、それには土の精が化して山霊となり牛の姿を現出したこと、さらに八紘(全世界)を呑むその牛の気合をたたえています。この付近に以前は『石牛洞』と呼ばれた石室が存在したようですが、現在ではその位置も不明です。